身近な存在を撮ることと、日記で身近な存在を登場さること、その存在についてどこまで撮る(書く)かの問題は重なっている。
個人の生を作品の裏側(深さ)を醸し出すためのものとして使いたくはないが、人生が一回しかない、再現不能なものであるということが作品へと跳ね返ってくることは避けられない。
写真には愛は映らないし、関係性も映らない。写真の見え方は変化していく。そこに映っているものがどう見えるかということでもあるが、一枚の写真を見ているときに流れている時間の変化が関係してきている。
結局そうなってしまった、そうならざるを得ないという偶然性が重要だと思う。写真を事後的に自由に編集できたり、AIによって画像生成できるようになったことが、この偶然性にどう関与してくるのかが写真にとって重要なんじゃないかと思う。それは生とAIの関係性について考えることでもある。
撮るという行為と撮られた写真(素材)を編集する作業の関係性。どこまでが「撮った」といえるものなのか。デジタル写真は「撮った」という瞬間的な行為を偽装している感じがする。特にスマホのカメラアプリとか。シャッターは今撮ったんだという感覚を味わう(確認する)ためのものになっている。
撮影行為を短い時間軸でとらえると、シャッターを押したその瞬間の行為について考えることになるが、もっと幅のある時間軸で考えた時に撮影行為の見方は変わってくるような気がする。
人はどうして人をとるのか。風景を撮ることと何が違うのか。人は人しかとれない?