曇りのち雨
午前中は季節の記憶を読んでいた。終盤の蝦乃木から送られてくる会社のビデオと中野の感想が良かった。この小説自体の話になっていた。ただ淡々と映していく、見ていく。何かをそこから読み取らせようとすることも、その背後を想像しようとすることもなく。12:30から雨が降ってきた。しばらくして打ち合わせがあるので家を出てIRORIへ向かった。阿部さんと30分くらい話して、巻組にお願いされたキワマリ荘に来るお客さんを案内して帰宅した。ポイントが残っていたので福尾匠の眼がスクリーンになるときを電子版で買って読み始めた。
そうやって一人一人がしゃべっているのを見ているうちに、僕は不意に、何と言ったらいいのか、蛇口から容器に水を汲んでいたらそれの容積が思いがけず小さくて、「あっ」と声を出すより早く水が溢れ出てしまったときのように、突然感動が溢れ出てきた。(1)
だらだらだらだら山もなく谷もなく際限もなくつづいているだけのビデオなのだが、こうやって一人一人を律義に映すというか記録していくのは家族や友達をホームビデをで映すのとは意味が違う。(2)
生きたイメージにおいて作用と反作用は不釣り合いであり、したがって選択が行われ、予想不可能な厚みのある現在が構築される。(3)
(1)保坂和志 季節の記憶 2015.11.30 11刷発行 中央公論新社 p353
(2)保坂和志 季節の記憶 2015.11.30 11刷発行 中央公論新社 p354
(3)福尾匠 眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』 2018.07.25 フィルムアート社