快晴
「かみのたね」というフィルム・アート社のウェブマガジンを見つけた。そのなかの「諏訪敦彦×ロバート・クレイマー対談 コントロールの外側にある協働」を読んだ。
私は、自分たちのためにどうしても解かなければならない結び目(問題)があったから、映画を作ったのだと感じられる作品が好きです。より多くの金が欲しいからでもなく、有名になりたいからでもなく、映画史のことを勉強したからというのでもなく、まずは自分のためにその結び目を解かなければならないと感じられる作品。だからあなたは自分の主観を恐れる必要はありません。「私の問題に一体誰が関心を持ってくれるだろう?」と考える必要はないのです。私はこう考えます。もし自分の問題をはっきり理解することができれば、その作品は他の人々の関心を引きます。なぜなら全ての人が問題を抱えて生きているからです。われわれは孤独ではないのです。このクソまみれの世界の中で。(1)
マクロな目線で見れば自分は石巻市出身で震災当時石巻市の中学校に通っていたので、震災の当事者という位置づけになる。ミクロな目線で見ると石巻でも内陸のほうで、周りは住宅しかない住宅地に住んでいた。震災の被害も津波の影響を受けた人に比べればかなり軽いものだった。だから、自分よりもっとひどい状況の人々と比べれば当事者性はかなり低い気がしている(被害の大きさで比べればだが)。当事者でも非当事者でもない、そういうグラデーションの中間にいるような人達は沢山いるんじゃないか。そういう中途半端な立ち位置を考えながら生きている。
住宅地にするためにできた土地で周りは家と空き地だけ、そんな文化的土壌のない場所で生きてきた。そんな自分が現代美術といううジャンルに関わること、そことの距離感を考えている。
中途半端な位置づけからくる中途半端な距離。海と陸の中間、波打ち際で佇んでいる。そういった光景が思い浮かぶ。偶然打ち上げられた漂流物を拾いながら何かを形づくっている。
属性ではなく、向き合ってきた時間を考える。時間とともに変化し続けていく。ジェンダーも固定されたものではない。当事者か非当事者かも固定されていない。出身地は変えられない、その引力から解放されるために時間を考える。場所から時間へ。分断は存在するが境界線は時間とともに消滅と生成を繰り返す。
https://libraryofbabel.info/なんのサイトかわからないけど気になるので後で調べる。
(1)諏訪敦彦、ロバート・クレイマー「諏訪敦彦×ロバート・クレイマー対談 コントロールの外側にある協働」2020.02.17 http://www.kaminotane.com/2020/02/17/8804/