2021.03.16

 曇り

 そこにたとえば風景論が成り立つ根拠がある。つまりそれぞれの個人なり、民族なりがさまざまの仕方で風景を〈身分け〉されている。それからまた、社会的風景というべきもの、つまり他者との関係があります。他者との関係のなかで自分の身が〈身分け〉される。そういう〈身分け〉の一つのケースとして、空間をとらえてみたいと思うわけです。(1)


 たとえば、生きられる空間にには〈場所〉というものがあり、〈方向〉というものがある。したがって空間それぞれの部分はお互いに異質です。ニュートンが考えたような絶対空間は、どこをとっても同じであるという意味で均質空間といえます。それに対して、われわれが生きている空間には、常にここがあり、あそこがある。そして、いつもここからあそこへと一つの展望(パースペクティブ)でもって世界をとらえています。ここ-あそこという場所性があり、ここからかなたへという一つの展望がある。そして展望のかなたには、また展望の背後には、とらえ得ない拡がりが拡がっていて、それをわれわれは地平と読んでいます。そういう意味では生きられる空間は無限空間ではなく、或る有限性をもった空間であり、奥行きのある空間です 。ここという場所性がなければ、隔たりというもの、距離というものはないといっていい。(2) 


 こことあそこ。大陸と島。つなぐ海。行き交う船。こことあそこでもない、どちらかではなく、近づき離れていくなかで身構える。思考する。その時間がすべて。 



(1)市川 浩 〈身〉の構造 身体論を超えて 講談社学術文庫 1993 p142-143

(2)市川 浩 〈身〉の構造 身体論を超えて 講談社学術文庫 1993 p144

Powered by Blogger.
emerge © , All Rights Reserved. BLOG DESIGN BY Sadaf F K.