晴れ
8時に起床。歯を磨き、猫に餌をやる。肉じゃがを温めて朝食をとる。ドトールへ行く。伊藤亜紗の「記憶する体」を少し読む。スーパーで朝食用のパンを買い帰宅。猫に餌をやり、平家の様子を見にいく。炬燵がつけっぱなしだった。みしおくんが消し忘れていたのだろう。帰宅して家の掃除と洗濯物を干し食器を洗う。夕飯にフランスパンのトーストとコンビニで買ったカニカママヨネーズ和えを食べビールを飲む。ヴァレリー 芸術と身体の哲学を読了。二周目に入る。
いかにしてある出来事が体に刻まれるのか。刻まれた記憶はその体においていかに作動するのか。(1)
一方、本書が扱うのは、出来事としての記憶そのものではありません。特定の日付を持った出来事の記憶が、いかにして経験の蓄積のなかで熟し、日付のないローカルルールに変化していくか。
つまり。この本で注目したいのは、記憶が日付を失う過程です。(2)
健常者としての記憶が刻まれた体で、障害のある体を生きることが彼らの体が二つあるように見える原因です。「多重人格」ならぬ「多重身体」。一つの物理的な体の上で、健常者の体と障害者の体が重なり固有のパターンを作り出します。(3)
暗算で行う場合、私たちは全てのプロセスを頭のなかに保持しつづけなければなりません。けれども筆算の場合には、大きな計算のプロセスを小さなプロセスに分け、書かれた文字に対して足したり掛けたりといった機械的な操作を行えばよいことになります。「書く」は「考える」を拡張する手段になるのです。(4)
重要なのは、吃音含めなんらかの障害を持った人間である、ということではないのではないか。そうではなく、そのような障害を抱えた体とともに生き、無数の工夫をつみかさね、その体を少しでも自分にとって居心地のいいものにしようと格闘してきた、その長時間の蓄積こそ、その人の体を、唯一無二の代えのきかない体にしているのではないか。
つまり、〇〇であるという「属性」ではなく、その体とともに過ごしてきた「時間」こそが、その人の身体的アイデンティティを作るのではないか。そう思うのです。(5)
とても共感する。なぜなら石巻で生まれたという属性、被災者という属性ではなく、石巻という場所とともに生きてきた「時間」、震災という出来事に向き合った「時間」が重要であり、属性に縛られる必要はないのではないかと考えてきたからだ。以前作った作品も石巻で過ごしてきた「時間」をテーマにしている。それは石巻出身という属性を重視していなかったから生まれた作品だと考えている。
なぜなら、どんなに科学技術が発達したとしても、思い通りにならないことと、人為的に介入しうることの間で人類は悩み、そして発見し続けるだろうからです。条件は変わるだろうけれど、問いとしては同じ。それが体を持った者の宿命だからです。(6)
自然と人為の間で人は悩み、なにかを発見していく。それは普遍的な営みなのではないか。
(1)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p9
(2)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p10
(3)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p12
(4)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p35
(5)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p268
(6)伊藤亜紗 記憶する体 2019.09.18 春秋社 p275