2021.03.05

 快晴

 8:30に起床。いつもより遅い。シャワーを浴びる。エヴァンゲリオンの初日のチケットを予約した。8日の8:30から上映。iroriへ行きヴァレリー芸術と身体の哲学の続きを読む。2時から前面貸し切りだったので、珈琲館へ移動する。はるひから電話があり鍵を忘れたと言われたので、帰宅して鍵を開けてあげる。洗濯機を回し、掃除をする。燃えるゴミを出し忘れたことに気がつく。来週の火曜日に出すことにする。百均にハンガーを買いに行き、ツタヤによって「〈ものまね〉の歴史」と「論理トレーニング101題」を買う。スーパーでビールと白角水割と白身のフライとカレーを買って帰宅。シラスでやっていた「コロナの現実とホラーの可能性、あるいは人形というメディア」を見ながら夕飯。


予期とは、過去を手がかりに未来に起こりうる出来事を想定することであり、現在を過去と未来という二つの方向に結びつける契機である。(1)

 

予期されたものと異なる出来事に出会うことは、世界と主体のあいだの「ずれ」に出会うことである。主体は、不意を打たれた直後、すぐにこのずれに適応することはできない。それは「遅れ」の感覚である。遅れにおいて、、主体は、迷い、混乱し、ためらう。(2)

 

意識されているか否かにかかわらず、覚醒している限り予期は常になされている。予期することは必ず、その出来事の生起に向けて身構えること、応答するための行為を身体的に準備することを伴っている。そしてこうした身構えが、私たちと外界の出会い方を大きく左右するのである。予期しだいでは、同じ出来事であったとしてもその価値はまったく別のものに変わってしまうだろう。ヴァレリーが重視するのは、出来事それ自体の価値ではない。あらかじめ予期によって状態づけられた私たちにとっての、その出来事の価値である。(3)


観念そのものの価値と、その刺激としての価値、つまりそれが出来事として私たちに及ぼす作用を、区別しなければならない。ある観念が刺激としてどれだけの価値を持つか、つまりその観念のまわりにどれだけの観念を形成するかは、そのつどの主体の側の条件によって変化する。(4)


 元々現代アートに興味があったわけではない。幼い頃身の回りに現代アートと言えるものは微塵もなかった。幼い頃の記憶は空き地と住宅の建設に結びついている。遊び場は住宅の建設をまつ空き地だった。今街に広がっている均質的で似たような建物が並ぶ風景は自分にとって故郷の風景に重なる。この均質的な風景をどう捉えていくのか。


「どういうこと?」と問われて「つまり」と応じ、具体的に説明しようとするなら「たとえば」と応じる。「それから?」と問われて「そして」と応じ、「どうして?」と問われて「なぜなら」と続ける。あるいは、相手が思っているのとは違う方向に話を転換させようと思ったならば「しかし」と切り出す。 

 

文章は、それがたとえモノローグの見かけを持っていようとも、基本的に対話の構造を持っている。議論を読み解くとは、なによりもまずこうした問いと応答の流れを読むこと、その対話の構造をつかむことである。そのリズムが送り手と受け手で共有されたとき、わかりやすい文章が生まれる。(5)

 


(1)伊藤亜紗 ヴァレリー 芸術と身体の哲学 2021.01.08 講談社学術文庫 p154

(2)伊藤亜紗 ヴァレリー 芸術と身体の哲学 2021.01.08 講談社学術文庫 p156

(3)伊藤亜紗 ヴァレリー 芸術と身体の哲学 2021.01.08 講談社学術文庫 p158 

(4)伊藤亜紗 ヴァレリー 芸術と身体の哲学 2021.01.08 講談社学術文庫 p159

(5)野矢茂樹 論理トレーニング101題 2001.05.15 産業図書 p9-10

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