2021.03.04

 快晴

 コンビニのシーチキンサラダを食べて朝食。本を読んで、お昼になったので、昨日買っておいた根菜カレーを食べる。なんとなく福尾匠のYoutubeに上がっている「作品と広告」という動画を見る。ともみさんに請求書を出して、洗濯機を回す。Amazonから注文していた本が届く。「見立ての手法」「グリッドシステム」「エクソフォニー」「空間へ」。あいのやとヨークベニマルに数日分の食料と猫の餌を買いに行く。肉じゃがのための食材を買って帰宅。洗濯物を干す。はるひがノンアルコールビールを買ってきてくれた。ここ数週間はアルコールをとっていない。1日が長く感じる。


作者の意図の代わりに、私の意図が入っているだけなんですよ。作者の意図を作品から取り除けるのであったら、私の意図っていうものもそこに持っていく必要はないはずで、意図(作者)と意図(私)のやりとりというレベルで考えている限りでは、広告的なものというのは脱することはできないと思うんですよね。ていうのは、人がどういう意図を持っているというのは、必ずなんらかのリスク計算や利益計算がなされているものなので、そこにはあらかじめ自分が求めているものしか見えないっていうことが起きちゃうわけですね。だからこそ、今日冒頭で言ったように作品の内実っていうものを見ずにすんじゃうわけですよ。(1)


タコは岩を見るとその岩に似るんですよ。だから、岩に隠れられるわけですよね。……人間は身体ごと変化するわけじゃないけど、何かを知覚する、何かを聞いたり見たりするっていうのは、部分的にそういうものを含んでいると思ってて、何かと本当に出会うっていうのは自分が変わっちゃうということなので、何かが作品としてそこで見られるってことと自分が変わること、もっと言えば消えちゃうことですね、隠れちゃうこと、人から見られなくなっちゃうこと、まさにタコが岩を見て岩に似るようにですね ……他の人から知覚されなくなるというのがどう言ったことかというと、さっき言ったような「あなた」と「私」とか、「我々」と「彼ら」とかっていう敵味方のロジックに拐取されない部分を作れるんじゃないかと思っています。(2)

 

それに対して作品っていうのがルアーじゃないとしたらなんなんだろうと思ったら、デコイ、おとりだと思っていて僕は、デコイっていうのは、私が消えるための装置なんですね、私が私じゃないものになるとか、私が人から見えなくなるとか...(3)


(1)(2)(3) 福尾匠 哲学対話 PARA SHIF「作品と広告」2020年2月22日

https://www.youtube.com/watch?v=e7XnCq2lwEw

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