晴れ、風が少し強い
トーストとベーコンと目玉焼きを焼いて朝食。映像を編集するためにデータの整理をする。まず必要なフォルダを準備することから始める。やりやすいことから少しずつやっていかないと終わらない。まず手が動かせることから始める。コンビニへ行くために外に出る。ブルーインパルスがかなり低い位置を飛んで行った。カップヌードルとホットコーヒーのMサイズを買う。エヴァンゲリオンの予告を観ていたら宇多田ヒカルが聴きたくなり、spotifyでしばらく宇多田ヒカルを流していた。夕飯に半額になっていた、鶏肉と揚げ餃子の弁当といちごのサンドイッチと水を買う。
したがって、問に応答するゲームとしての詩作は、自己表現というより自身のプレイヤーとしての能力を試し鍛える「練習」のようなものである。もっとも、詩作を「練習」とみなすといっても、それはもちろんヴァレリーが自身の詩の質に関して無頓着であったということを意味するわけではない。上の引用にあるように「練習」として詩を作るとは「即興に抗う」ものでなければならず、一歩一歩、一語一語、語を置きつつそれを条件と照らしあわせるという、そのつどそのつどの判断が要求される作業である。(1)
みずからの行為を「練習」とみなすこと、つまり自分の書いた語を自分の実存と結びいた必然的な表現とみなさないことは、逆に偶然思いついた表現をあたかも自分の語であるかのように積極的に引き受けていくことにもつながる。偶然の語であったとしても、作詩をゲームととらえる以上、その語は自分の今後のゲームの展開を導く「問い」に他ならないからである。それはちょうど、カードゲームにおいて最初に配られたカードを自分のものとして引き受けるのと同様である。(2)
(1)伊藤亜紗「ヴァレリー 芸術と身体の哲学」p137-138
(2)伊藤亜紗「ヴァレリー 芸術と身体の哲学」p138